ふぁるぷだいありぃ 小春編
天鷲館学園は武道を重んじる。
武道を通じて心身を鍛え、礼儀を学び健全な人間を育むことを念頭に置いた教育方針は社会的にも高く評価されているらしい。
それは体育とは別に武道を学ぶ時間が定められているくらいで、中等部では柔道、弓道、剣道から。高等部ではそれに相撲と空手を加えた5種目から、1年ごとに履修する種目を選択することになる。
広く浅く、毎年違う種目を選択するのもいいし、ずっと1種目を選び続けるのも認められている。
この武道の授業を、1種目に絞って履修した場合、他校の部活動に匹敵する水準の技術が会得できると言われているほどで、天鷲館学園の部活無所属の一般生徒が、県大会で上位を狙える
だけの力を持っていたりする。
僕、水宮彩乃介が天鷲館学園中等部に進学して竹刀を初めて握ってから1年半、今ではそこそこ様になってきたと思えるようになった。
中秋の10月。
その日の武道の授業の練習試合で、僕はクラスメイトの女子生徒、十名河小春と相対していた。
三人の審判は剣道部に所属する生徒が努め、他30人ほどの生徒と、妙齢の女教師、榊原先生が見守る中、僕は小春と竹刀を交える。
面ごしに見えるまっすぐな視線。
白い道着に白い袴、背丈は僕と同じくらい。
姿勢よく中段に構えて、竹刀の切っ先を喉元に向けてくる構えた姿からは、凛とした雰囲気を醸し出している。
小春とは去年入学した頃からのクラスメイトで、武道の授業では同じ剣道を選択しているという以外、特に僕と接点があるわけではなかったが、お互い剣道部には所属せず、また2年続けて剣道の履修を選択していたために腕前も近いということもあり、自然と彼女と練習や試合をすることが多くなった。
2年生に上がった最初の頃は、女子に負けたくないとライバルとして意識していただけだった。しかしそのうち、休憩中や練習後に話をするのがいつしか楽しくなり、また気さくで見た目にもかわいい彼女との練習を、やっかまれたりするのが嬉しくなったりすることを自覚した時、僕は彼女に恋していることに気がついた。
しばらくは好きな子とこうして対峙するのが、嬉しくもあり、またひどく緊張してしまったりもしたが、
最近では面をつけている時には、甘酸っぱい恋心も割り切ることができるようになってきた。
「やあっ!」
「せあっ!」
鋭く響く気のこもった声を上げてお互いに牽制。張り詰めた空気の中で場に飲まれないためにもそれは有効だ。
そして僕は剣先を小さく振りながら、少しずつ剣線を下げていく。
小春の視線が、僕の眉間に向けらているのを感じて僕は小春が面を打ってくると確信する。
得意の刺し面をまっすぐに。
運動神経の良い小春は、僕よりも遠い間合いから面を狙うことができるが、彼女の馬鹿がつくほどまっすぐな性格は誘いにのせやすい。しかし今の僕の腕前では来ると分かっていても、確実に応じ技を決めることもまた難しい。
1本目は出鼻を狙って篭手を狙ったが、有効打とならず面を決められてしまった。
2本目は際どかったが、なんとか篭手を決めることができた。
そして3本目。
ここで1本を取ったほうが勝ちとなる。
「面っ!」
「どぁうっ!」
小春が僅かに動いた瞬間、反射的に僕も動く。
面を狙ってくると確信していた僕の竹刀がイメージどうり迷うことなく弧を描き、小春の胴を捉えた。
バシッと、こ気味のいい音が道場に響き、3人審判が一斉に赤色の旗を上げる。
よしっ!
その喜びを体で表現したいところだが、武道の世界ではそれをやったら怒られる。
思った通りに技が決まったときの心地よさ、勝利の満足感を心の内に秘めながら、礼をして退場すると、小春と一緒に榊原先生の前まで行って正座する。
練習試合の後はこうして指導を乞うのが決まりになっているのだ。
道場では他の生徒の試合が始まっているが、先生はそれを見ながら、僕たちへの指導を行う。
榊原先生はまず小春に対して口を開いた。
「小春!あんな見え見えの誘いに乗ってるんじゃないよ!可愛い顔してまったくあんたは、直進ましっぐらのイノシシ武者かい!?この町の生徒に脳筋が多いのは地域柄ってやつなのかね?」
榊原先生の叱責が飛び、小春が小さく肩をすくめる。
そして次に僕を見る。
「それからあんたは頭でごちゃごちゃ考えすぎ!駆け引きとかまだ10年早い!今はそんなんに頼らず基本をもっとしっかり磨きな!まだ右手に力入りすぎてるから一本目の篭手が決まらなかったんだ」
あんたら2人は足して2で割ったくらいでちょうどいい。榊原先生は僕と小春をみてよくそう言う。
榊原先生は厳しいが、生徒のことをしっかり見ていて、とても面倒見のいい先生だ。
競技者としての実力も凄まじく、全国でも名が知られているらしい。本当は僕たちのような初心者には勿体無いくらいの指導者なのだが、そんな先生の指導を受けられるのも天鷲館学園ならではと言えるだろう。
榊原先生に礼を言ってその場を離れ、静かに道場の隅に座って篭手と面を外す。
その隣では、小春が同じように面を外していた。
体は礼節を守っていても、ニヤケ顔までは隠せていなかった僕の腹に小春が裏拳を入れてきた。
胴をつけているため痛かったのは小春の方だろうから、その理不尽な暴力は目を瞑ってやるとする。
「うぅ~。負けたぁ」
どことなく涙声なのは、胴を殴って痛かったからだろう。しかしそれは自業自得だ。
「フハハーン。これで僕の勝ち越しだな」
「でも取った本数はまだわたしのほうがまだ3本多いんだからね!」
「1本勝ちでも勝ちは勝ちさ」
彼女とはこれまで21戦して9勝8敗3引き分け。とった本数は僕が13本で彼女が16本。
メモしているわけではないが、お互いしっかり覚えていたりする。
1本勝ちが多い僕に対して、小春はしっかり2本狙ってくるから、取った本数が多い小春より、勝ち数で僕が上回る形になっているわけだ。
「そこの2人!無駄口を叩き合うならもう1戦やってみな!」
不意に道場に榊原先生の叱責が響いた。
どうやら僕と小春に向けられるているようだ。周囲の視線が集まる中慌てて面を付ける。
小春との試合は僕にとって願ってもないことだ。小春の方も、そう思ってくれているだろうか?
「1本目、始め!」
「やあっ!」
主審の声を合図に小春が声をあげる。
さっきの借りを返そうと気合が入っているようだ。
でも、こういうときほど行動が読みやすいんだ。小春は……。
小春の腕が動いた瞬間に篭手を打つ。
切っ先に手応え、ほぼ同時に前頭部に鋭い衝撃を受ける、
主審と副審一人の旗が上がり、やや遅れてもう一人の旗が上がる。
「1本、篭手あり」
主審が告げる。
しっかり狙いを定めて打ち込んだわけではない。慣れた小春相手だったから取れた1本だろう。他の生徒だったら決まったとは思わない。
「2本目!」
主審の合図があるや、即効で小春が動いた。
「めぇぇぇん!」
まあ、そう来るだろうとは思っていたから、僕は打ち込まれる竹刀をいなすとそれを避けた。
続けて篭手、面と続けて来る連続技もいなし、躱し、距離を取って回避。
1本目を先取されて、小春はむきになっているようだ。だから僕はこちらから前には出ずに小春の打ち込みを躱すことに専念する。
小春には悪いが、無駄に勝負せずここは逃げ切らせてもらおう。このまま試合時間が過ぎるまで逃げ続ければ僕の1本勝ちだ。
これは、小春相手にはよくあるパターンで、僕に1本勝ちが多い理由である。しかし、今回の小春は一味違った。
「やぁぁっ!」
打ち込んできた小春は、つばぜり合いに持ち込むではなく、勢いよく竹刀を握ったままの両手で僕を思い切り突き飛ばしてきたのだ。
元から逃げ腰だった僕は、それを受け止める事ができずバランスを崩して倒れた。
なんとも乱暴な。
しかし、主審が僕に場外反則を告げられて、僕は小春の狙いに気づく。
剣道では2回場外に出すことができれば、それで1本になる。マリア先生も認めるイノシシ武者の小春がそれを狙ってきたとしてもおかしくはない。
……逃げ回る僕に腹を立てただけかもしれないが。
「いいぞ小春ー!逃げ回るようなやつはぶっ飛ばせーっ!」
小春を煽る榊原先生。
それに続き、周囲の生徒からも同調するような声が聞こえてくる。
単純な力比べで負けはしないと思うが、さっきのようにのらりくらりと打ち込みをかわそうとすれば、小春は本気でぶっとばしにくるだろう。
小春の突進力に関しては榊原先生すら認めるところで、下手に受けられないのは今ので証明済みだ。
榊原先生の後押しがあろうと無かろうと、こいつは絶対やる。
ならば、僕も覚悟を決めなければならない。
「始め!」
再び構え直し、主審が試合再開を告げる。
「面っ!」
……とか言いながら全力で小春が突っ込んでくる。
猪突猛進にも程があるだろう!?
僕はそれを横っ飛びに躱すと、小春は勢い余って足をもつれさせ、派手な音を立ててすっ転んだ。
剣道では転んだ相手でも1打だけなら許されるのだが、小春があまりに綺麗に前のめりに倒れたためこちらも手を出すことができなかった。
「止めっ!」
主審が止めに入り、小春がゾンビのように起き上がる。
試合中は相手に手を貸すことも、声をかけることもできない。もちろん土下座して謝ることなどもってのほかだ。
改めて中央で構え直し、試合が続行される。
ガルルルル!
唸り声が幻聴として聞こえてくる程の殺気を放ち、構える小春。
「始めっ!」
「轟っ!」
主審の声を合図に人の声とは思えない裂帛が轟いた。獲物に襲いかかるかのように小春が飛びかかってくる。
それからの数分間、僕は暴れる小春から全力で逃げ回り、結局僕の1本勝ちとなった。
「ぶぁっかもーーーん!あんたらはさっきの話、何を聞いとったんじゃあっ!」」
試合を終えて、いつものように眼前に正座した僕と小春に榊原先生は等しくげんこつを落とす。面をつけていてもずしりと響く一撃だった。
試合中は熱くなっていた小春も、さすがに今はしゅんとしている。
「まず水宮!いつも言ってるだろう?きっちり2本狙っていけ2本!最初の篭手は良かったよ。どんどん狙っていきな。そのための練習試合なんだ!あんなセコイ手使ってるんじゃないよ!」
「……はい、ありがとうございます」
おとなしく頭を下げる。
あんな周囲が呆れるような試合でも、榊原先生はちゃんと指導してくれる。いい先生である。
そして次に小春の方を向くと、榊原先生は再びは雷を落とした。
「小春、あんたはここに剣道しに来ているんだろう?竹刀を使え、竹刀を!相撲がしたいなら外でおもいっきりやってこい!」
さっき煽りまくっていたのはマリア先生ではありませんでしたか?もちろんそんなこと思っても口には出さないが、小春が途中から剣道していることを忘れていたのは間違いないと思う。
「まぁ、また今度こいつが逃げ回るようなら、容赦なくこいつをぶっ飛ばせ。でももう少し体裁は考えな。普通なら失格にするから」
……本当に良い先生である。
「「ありがとうございました!」」
小春と声を揃えて深々と頭を下げる。そして立ち上がろうとしたところを急に横から突き飛ばされて、僕はその場にひっくり返った。
いったい何が起こったんだ!?
僕が目を白黒させていると、榊原先生の大笑いが聞こえてきた。
「こら小春。ぶっ飛ばすのはまた今度だっていっただろう?」
十名界神社大祭。そう書かれたのぼりが幾重にもはためいているのが見える。
祭りを明日に控え、町のあちらこちらでその準備が進む様子を眺めながら、食材の詰まったエコバックを手に僕は家路へと歩いていた。
明日の今頃、今歩いているこのあたりも夜店が立ち並び、大勢の人で賑わっていることだろう。
そんな僕の前を、二人の女の子が楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていた。
「瑠環ちゃんち今日カレーか、いいなー。食べに行っちゃおうかなー」
「うん。食べに来てよ。お兄ちゃんも来るし、カレーもご飯も一度にたくさん作ったほうが美味しくなるの」
「なんだあやすけも来るのか」
「悪かったな」
ひょこひょことポニーテールを揺らし、人のことを"あやすけ"などと勝手につけた略称で呼ぶ失礼なのが水来流々穂。学園の後輩でアークス学園中等部の1年生だ。
もう片方、二つの大きめに編んだおさげ髪を揺らして歩いているのは、近所に住んでいる小学生の蛙塚瑠環。
瑠環は、父親の友人の娘さんで、昔から僕のことを"お兄ちゃん"などと呼び、海外暮らしで滅多に会わない実の妹より妹していたりする。
僕が3年前にこの町に引っ越してきたのも、仕事で海外にいることが多い両親に代わって保護者になってくれる瑠環の家族がいたからだ。
今日もうちは僕一人ということで、瑠環の家で夕食をご馳走になる事になっていた。
そこでせめて何か手伝おうと、瑠環のお使いについて行ったのだが、その帰り道に神社に向かう流々穂に偶然会ったのだ。
「うーん、でも本番明日だから遅くなるだろうし、うちの方も忙しいから今日は無理かな」
「そっか。残念だけどしょうがないね」
流々穂は祭りで伝統的に行われている神楽の舞手に選ばれたとのことで、この2ヶ月ほど練習のために神社に通っているのだという。
また、流々穂の家は老舗の和菓子屋で、出店やら奉納する菓子の準備やらで、猫の手も借りたいほど忙しいらしい。
流々穂も、神楽が終われば今度は家業の手伝いに追われるのだろう。
やがて神社の石垣の向こうに、雨よけの天幕を張った櫓が見えて、自然と視線がそちらへと向く。
明日から行われる奉納相撲大会の会場だ。
一緒にいる二人も同じなようだ。会話は祭りで行われる奉納相撲大会へと移っていた。
相撲大会では小学生による子供の部があって、流々穂も瑠環も毎年参加していたが、中学生になった流々穂は去年で卒業。瑠環も今年が最後になる。
「今年はるるちゃんとお相撲の特訓できなかったから不安なの」
「ごめん。今年は舞の稽古で手が一杯なんだ」
あまり友達の多くない瑠環は、練習する相手もそうはいない。それに流々穂がこの春アークス学園に進学してからというもの、少し寂しい思いをしていたようだ。
だったら出なければいいのにと僕は思うのだが、どうも瑠環の頭にはその選択肢が無いらしい。
「いいなー、わたしもまた出たいなー。どうして女子は小学生までなんだろう」
「流々穂なら小学生に混ざっててもわからないんじゃないか?」
「なんか言ったかあやすけ!」
僕の言葉に流々穂が目を釣り上げる。
流々穂の背丈は瑠環と似たようなものだし、身体付きなど少し細いくらいだ。小学生の中にいても違和感を持たれることはないだろう。
「るるちゃんはこのあたりでは有名人だから絶対バレると思うの」
悪ガキとしてな。僕は心の中でそう付け加える。
「そだよ!大会では毎年優勝候補の一角ってずっとマークされてたんだから!」
それはよく知っている。
自分より大きい相手でも臆することなく立ち向かい、勝利してしまう流々穂のことを、今でも内心では憧れをもって見ていたりするのだ。
この町で育った子は、自分にはない強さを持っている。僕はずっとそれに引け目を感じていた。
だがしかし、流々穂は昔からいろんな意味で人を振り回すのが得意な奴だった。
「女子の部に混じってても気がつかれなかった誰かさんとは違うんですよーだ」
「それ全部お前が原因だろ!」
それは3年前のこと。この町に引っ越して来た最初の年に、僕は流々穂達に誘われて一度だけこの相撲大会に参加したことがある。
その頃、瑠環を除けば流々穂はこの町で初めて出来た友達だった。
相撲の特訓にも付き合ってくれたし、当日は選手登録からまわしの付け方まで、初出場で勝手のわからない僕の面倒をいろいろ見てくれた。
しかし、何を思ったのかこいつは僕を女子の部にエントリーさせたのだ!
大人達は何故かそれに気がつかず、何人もいたはずのクラスメイト達も何故か何も言うことなく、僕が自分でその事実に気がついたのは、最初の試合が終わった後だった。
普段から鍛えられている地元の子を相手に、苦戦したもののなんとか勝利した僕は、すっかりはしゃいで特訓してくれた流々穂や瑠環に礼を言おうと思ったのだが、そのときふと目に入ったトーナメント表には小学生高学年女子と書かれ、そして僕の名前は水宮 彩乃になっていた。
「あのときは恥ずかしくって、死にたくなったんだぞ?」
僕はそこで棄権して、数日家に引きこもった。
その年以来、僕は祭りはおろか、地域の行事にもほとんど顔をだしていない。
そういえば、流々穂ともそれがあってしばらく疎遠になったんだったな。
久々に会ったら印象変わってて驚いたんだけど。
しかし、僕にとっては散々な思い出である相撲大会も、この近所で生まれ育った子供達にとって、大会への出場は毎年恒例の行事で力の見せ所である。
瑠環は同年代の中でも身体が小さい方だし、マイペースで内向的な性格だから格闘技に向いてるようには見えないが、意外と運動神経はいいし、体力もあるから結構強い。町の力自慢が集うこの大会でも、これまでいい成績を残していると聞いたことがある。
「うん。がんばって勝てたら神様はお願い聞いてくれるかな?」
この相撲大会で頑張った子供には神様がご褒美として願いを聞いてくれるという言い伝えがあるそうだ。
「今年は流々穂ちゃんと特訓できなかったし、ちょっと不安なの」
「ごめん瑠環ちゃん。でも大事なのは勝ち負けじゃなくて、どんな相手にも逃げずに立ち向かった心に神様は答えてくれるんだって、みんな言ってるよ。……わたしもそう思う」
……逃げずに立ち向かう心。この町の子達が持っているもの、僕が持っていないもの。その言葉がその言葉が僕の心を少しばかり騒めかせる。
「流々穂ちゃんはお願いかなったことがあるの?」
「うん。叶ったよ!」
臆面もなくそう言ってのけた流々穂の顔が、ちょっとだけ眩しく見えた。
「あっ!」
神社の前まで来て流々穂がソレを見つけて駆け出していく。
流々穂の向かう先、鳥居の下で箒を手に、白と緋色の巫女服姿で掃除に勤しむ少女の姿を目にして、僕も心臓が高鳴った。
それはさっき学園で、人のことをぶっ飛ばしてくれたクラスメイト。小春だった。
神様、ありがとうございます!思わず八百万の神々に感謝してしまったが、そうでもしなければ罰が当たるというものだろう。
小春が神社の娘であるとは最近になって知って、。それで嫌な思い出のある神社や祭りにも足を運ぼうと思うようになったのだ。
好きになった女の子が巫女服着て竹箒で掃除してる姿が見れるとか、それこそ奇跡級の幸運ではないだろうか?
「せんぱーい、お疲れ様です」
「あっ、流々穂ちゃんいらっしゃい」
流々穂にこやかに挨拶をすると、小春は流々穂にやや遅れて着いた僕を見て、何故か少し驚いたような顔をしていたが、すぐに微笑みを返してくれた。
小春はどうやら相当機嫌がいいらしい。
「あら?こんにちは」
「あ、ああ。帰ってからも掃除なんて大変だね」
こんにちは?小春が僕に巫女服姿で「こんにちは」だと?巫女服着ると性格まで清楚になるのだろうか?
……素晴らしい。巫女服って最高だ。
「あたし先に帰る!」
僕は感動でしばらく放心していたらしい。不機嫌そうな瑠環の声にはっと我に返る。
瑠環はそんな僕の手からエコバックをひったくると、おさげを振り乱しながら走って行ってしまった。
「どうしたんだ瑠環のやつ?」
「あーあ、あやすけわかってないなー」
流々穂はにやにやしているが、聞かなかったことにする。
「やきもち焼いていたのかな、ほっぺたがこんなになってたよ」
小春が自分の頬を膨らませてみせる。可愛かった。
「瑠環はもともとそんな顔だぞ」
「あー、ひどいなー。そんなことないよ」
「そうか?最近太ってきたような気がするんだけど?」
最近、瑠環の身体つきがふっくらと丸みを帯びて来ていたと思っていたから、僕はついそう口走っていた。
「あ、ひどい事言うなー」
「あやすけ最低」
案の定女子2人から抗議の声が上がる。
この話題は危険だ。
しかたなく、瑠環の件から話を逸らそうと、この神社について話をふることにした。
「そういえば、ここって珍しい神様を祀ってるって聞いたけどどんな神様なんだろう?」
「あやすけ逃げた!」
「やかましい」
しかし小春の方は話に乗ってくれたようだ。
「うん?ここの神様?狐の神様だよ」
「そっれてお稲荷様じゃないの?」
「うん。違うんだよ。ここでお祭りしてるのはこの土地の昔から繁栄と豊穣をもたらしてきたと言われる神狐で、伏見の稲荷神社とは全く別なんだ。図書館に行けばそのあたりの伝承の本とかあるから読んでみるといいよ。絵本にもなってるしね」
「そういえば小学校の図書室においてあったな」
その絵本なら、珍しかったから読んだ覚えがある。確か昔この土地を戦から救った狐の話だ。
昔、このあたりは小さな村があるだけの荒れた土地だったそうだ。そこでは村人と一緒にとても賢い狐が住んでいた。
あるとき2つの国がこの土地をめぐって戦を起こそうとしたしたとき、狐は僧侶に化けてそれぞれの殿様のところに行ってこう言ったそうだ。
「ここの土地の村は貧しく、取れる作物も僅かなもの。戦をすればますます土地は荒れ人が死にます。そこで間もなく村では収穫を感謝する祭りが行われます。その祭りの場で両家の代表が相撲をとり村はその年勝った方の国に年貢を収めるというのはどうでしょう?」
戦を始めようとしていた殿様は僧侶の言葉は受け入れた。
祭りの日には多くの人が集まるようになり、街道も整備され村は次第に豊かになっていった。土地を取り合っていた2つの国の仲も良くなり、やがて一つの国になった。
人々は戦を止めた狐を土地の守り神として崇めるようになったという。
それから300年余りの時がたったが、この地に根付いた"諍いは相撲で決めろ"という風習はしっかり現代まで続いている。
つまり、この町の人間が脳筋なのはこの狐のせいと言える。
「うん。山の方に長い階段があって、その上に小さなお社があるの知ってる?実はね、そこがここの神様をお祀りしている、本当のお社なんだ。でも場所が場所だけに、参拝者もなかなか来ないものだから、100年くらい前にここに新しくお社を作ったの。だから、山の上のお社もうちが大事に管理してるんだけど、それを近所の悪ガキが遊び場にしてね」
小春がその近所の悪ガキ代表、流々穂の頭をぐりぐりと頭を撫で回す。
割と力が込められているように見えるにもかかわらず、流々穂は撫でられて喜ぶ猫のように嬉しそうに目を細めていた。
「それでも神様だって人が来ないの寂しいだろうし、きっと子どもが遊ぶのは許してくれるからって大目に見ていたの。それで年も近いし、お目付役も兼ねてたまに一緒に遊んでたんだよ。まったく、目を離すと何をするかわからないんだもの。何度一緒に怒られたことか」
「……それは大変だったな」
僕も覚えがあるからよくわかる。僕もこいつにはさんざん振り回されたからだ。
社まで続く長い階段を競争して駆け上がったり、相撲、チャンバラ、木登りとか普通の遊びをしているうちはまだ良いが、洒落にならない遊びを初めて、周囲に迷惑をかけまくった事例は、付き合いが短い僕でも事欠かないくらいだ。
野生のウサギやリス、タヌキを捕まえて遊んだ日には、全員病院に連れて行かれてめちゃくちゃ怒られた。野生動物にはどんな雑菌が付いてるかわからないらしい。
猪が出て畑が荒らされたと聞けば討伐隊を組織して山へ繰り出し、警察が出動する騒ぎになって、まためちゃくちゃ怒られた。
また、流々穂は運動神経抜群のくせに泳げない。
その理由が、昔カッパに襲われたからだとかで、それ以来、水が怖くなって泳げなくなったと言い張っている。
そのリベンジのためカッパを探すとか言い出して、誘き出すためにカッパの真似をして川で遊んでいたら、自分たちがカッパと間違えられてしまい町中が大騒ぎになって、またまためちゃくちゃ怒られた。
そうやって怒られてばかりしているくせに、流々穂は街の大人達からは案外気に入られているようだ。最近は実家の和菓子屋の手伝いなんかもよくやっているようで、近所のお年寄りや奥様方から可愛がられているらしい。
馬鹿な子ほど可愛いというやつだろうか?
でも、流々穂が小春と以前から親しかったのは初耳だった。
僕が流々穂と遊んでいたのは、僕がこの街に引っ越してきてしばらくの間だけだった。
その間に僕が小春と会うことはなかったけれど、もしも、もっと長く流々穂と遊んでいたならばもっと早くに出会えてたのかもしれない。
小春のことは小学校の頃からたまに見かけることはあったが、その頃はクラスも違ったし、たまに見かける可愛い子、という認識でしかなかったからだ。
もっと早くに出会っていれば、もっと色んな思い出が作れただろうか?
今はそれが惜しく感じられた。
「えへへ。先輩には昔からお世話になってます」
「先輩なんてなんか寂しいな。この前まではちゃん付けで呼んでくれてたのに……」
「中学生になったら先輩のことは先輩って呼ばなきゃダメなんです。でないと怖い先輩に目をつけられちゃうんですよ?」
確かに中学生になると、小学生の間では緩かった先輩後輩の関係が厳しくなってくるのは確かだ。そして、僕も一応上級生、先輩である。
「……なんで僕のことは"あやすけ"なんだよ」
「えー、あやすけはあやすけだよ。あやすけのくせにー」
こいつ頭カチ割ったろか!?
しかし残念ながら僕が振り下ろした空手チョップはあっさりかわされて空を切ることになる。
「べーっだ!」
流々穂は舌を出すと、ポニーテールをなびかせて境内へと駆けていく。
「まったく、しょうがないやつだなー」
腹は立つが小春の前だし大人気なくムキになるのも格好悪い。ここは年長者の余裕というのを見せるべきだろうと、平静を装って黙って見送ることにした。
生意気な下級生などいなくなって清々するというものだ。ここはお邪魔虫がいなくなることを歓迎するとしよう。
「お姉ちゃんなら社務所にいるよー!」
小さくなっていくその背中に呼びかける小春に、流々穂はくるりと向きを変える。
「はーい!またねー、せんぱーい!あやすけー!」
そして大きく手を振って走っていった。
「前は男の子みたいだったのに、流々穂ちゃん、可愛くなったよね」
「そうかな?」
「そうだよ」
確かに今年4月、中等部の制服に身を包んで久々に僕の前に現れた流々穂は、最初気がつかなかったくらい可愛らしい女の子になっていて驚いた。それは外見だけだとすぐに気づかされたのだが……。
とはいえ、今の僕には流々穂のことなどまるで目に入っていなかった。
頭の中は、すぐ傍にいる小春のことでいっぱいだったからだ。
小春に妹がいるとは知っていた。中等部の1年生で、小春によく似た元気な子だ。
でも姉がいるとは初耳だった。
小春のことを1つ知ることができて嬉しかった。
近くの大樹からツクツクホウシの声が聞こえてきて、秋の風が小春の長い栗色の髪を揺らし、小春はその細い指で長い髪をかき撫でる。
やわらかい西日に照らされた横顔に釘付けになった。町の喧騒も聞こえなくなるくらい、目の前の少女に夢中だった。
好きだと言いたい、この子に誰よりも早く、誰にも渡さないために、僕は焦る気持ちに背中を押されるように、その日人生で初めて告白をした。
"好きです。付き合ってきださい"
十名界神社の社務所は6畳ほどの和室だが、祭りを明日に控え、お守りやおみくじ、破魔矢の在庫がダンボールに入って積まれ、普段の整然とした様相からすっかり物置へと様変わりしていた。
そんな社務所の中の限られた空間で、ぐ白衣に緋袴の伝統的な巫女装束を着込んだ小春が、同じく巫女装束に着替えようとする、流々穂の着付けを手伝っていた。
本番に向けて衣装も同じものを着て練習を行っていたが、不器用な流々穂は袴の着付けに毎回手間取る。
「小春ちゃん、きつい!苦しいってば!」
「こ、こら!動くな!しっかり結べないじゃない!」
「だって、小春ちゃんの帯の締め方きついんだもん」
「あんたが自分で袴を着れないのが悪いんでしょうが!まわしは一人で締めれるくせに、なんでこれが出来ないのよ!」
「あんなの布一枚だし。こんなに難しい結び方もしないもん」
「蝶蝶もできないのかあんたは!緩いと舞ってる途中でまた袴がずり落ちるわよ?本番で恥ずかしい思いしたくなかったら大人しくしな!」
「もー、小和先輩はもっと優しくやってくれるのに」
「あん?何か言ったかな?」
小春が帯を締める手に力を込めると、流々穂が悲痛な声が上がる。
「ぐえっ……、ご、ごめんなさぃぃぃ」
小春がようやく大人しくなった流々穂の着付けを終えてしまおうとしたとき、社務所の中に小春によく似た巫女装束の少女が息を切らして駆け込んできた。
小春の双子の妹、小和だった。
「……はぁ、はぁ。お、お姉ちゃん、ど、どうしよぅ」
「小和?」
「あれ?小和先輩、どうしたんですか?」
のんびりとした小和が普段見せないその様子に二人は手を止めて揃って目を丸くする。
「なんであんた、私にちゃん付で小和には先輩なのよ?」
「えー、だって小春ちゃんは小春ちゃんだよ。小春ちゃんだしー」
小春は黙って、更に腕に力を入れて流々穂の悲鳴が上がる。
しかし小和は二人のじゃれあいを気にしている場合ではなかったようだ。
「あ、あのね……、お姉ちゃん、。私、さっき告白されちゃった……」
「「な、なんだってーーーっ!!」」
「それってまさか、あやすけからですか?」
「う、うん……。さっき流々穂ちゃんと一緒にいた子」
「はぁ!?なんであいつがあんたに……?」
小和はアークス学園ではなく公立の中学に通っていて、彩乃介とはこれまで話しているところすら見たことが無い。確かにおっとりとした小和が自分より男子にモテそうな気はしなくもないのだが……。
「そうだよね。私もあの子のことよく知らないし、それで思うんだけど、多分その人、私とお姉ちゃん間違えてたんじゃないかな?でも私、驚いて逃げてきちゃって……。どうしよう」
はぁーっと、小春と流々穂が同時に息をついた。そして……。
「ほっとけばいいわよ。あんな馬鹿」
「ほっとけばいいです。あんな馬鹿」
「えっ、お姉ちゃんはそれでいいの……?それに彼女のこと傷つけちゃったよ?どうしよう」
「いいわよっ!私はあいつのことなんかなんとも思ってないんだからっ!」
小春が乱暴に流々穂の帯を結び付けると、三度、社務所に流々穂の悲鳴が上がる。流々穂の着付けを済ませたところで、ふと何かに気がついたように、小春は小和に怪訝な顔を向ける。
「……小和?あんた今『彼女』って言った?」
幸いうちの家族は皆海外ででしばらく帰ってこないため家の中は僕一人だ。
だからリビングのクッションを涙で濡らしても誰にも見られることはない。
"困ります"
そう言って走っていった小春の姿が、頭の中で何度も再生されている。
つまり、あれはこういうことなんだ。
僕はフラレた。失恋したのだと。
一人で家に帰って来てからどれくらい時間が経っていたのだろう。まるで僕の涙腺に合わせるように外はいつの間にか大粒の雨が降り出していた。
通り雨が多い季節だ。明日は晴れるというし祭りには影響ないだろうが、それは僕にはどうでもいいことだ。
また当分は神社に近づく気持ちにはならないだろうから。
「お兄ちゃん、いるの?」
玄関が開く気配と、その後の瑠環の声に、僕は慌ててソファーから身体を起こすと、袖口で涙を拭った。
時計を見るともう20時を回っている。
僕は瑠環の家で食事させてもらう約束があったことを思い出した。
瑠環は心配して見に来たのだろうか?
近所とはいえ、小学生が一人で出歩く時間じゃない。
瑠環の家に誤りついでに送っていくかと、立ち上がる。長い時間ソファーで横になっていたせいか、すっかり身体も硬っていた。
「ごめん、ちょっと寝てたんだ」
「お兄ちゃん、泣いていたの?」
「……」
僕の嘘は一発で見抜かれてしまったようだ。
目が赤くなっていたのか、声が少し震えていたからか、頬に涙の後でも残っていたのか?
どっちにしても格好悪いったらない。この子の前ではいいお兄ちゃんでありたかったのだけれども、それも、もう台無しのようだ。
「あの人の事が好きだったの?」
おそらく流々穂から聞いたのだろう。瑠環は僕が小春に告白してフラレたことを、どうやらもう知っているようだ。
流々穂の奴め余計な事を……。ポニーテールの少女を少し恨む。
「あたしね、ずっとお兄ちゃんに伝えたいことがあったの。……もうちょっとだけ、もうちょっとだけ大人になったらって思っていたのに。もう言えなくなっちゃった」
瑠環も泣いていたのだろう。その声は震えていた。
「うん……。ごめんな」
瑠環の好意には、ずっと前から気がついていた。
僕が小春と話をしていたときにやきもちを焼いていた事も、僕は気がつかないフリしていたんだ。瑠環の想いには答えられなかったから。
僕が小春の事を好きなことを、瑠環も前から知ってたのだろう。
自分の想いが叶うことががないと知ったとき、瑠環も今の僕と同じようにひっそりと涙を流したのだろうか?
でもそれは、どうしようもない。どうしようもないことだった。
「……少し一人にしてくれないか?ちょっと色々あって、疲れたから、今日はもう休みたいんだ」
しかし、瑠環は帰ることはなかった。代わりに、小さな、消えそうなくらい小さな声で、ソレを聞いてきた。
「お兄ちゃんは、……小春さんに告白したんだよね?」
「うん」
「やっぱり気がついていなかったんだね……。あそこにいたのは小春さんの双子の妹の小和さんだよ?」
なんの冗談を言っているのかと思った。
驚いて瑠環の方を見ると、瑠環は淡々と事情を話し始める。
「小和さんがお兄ちゃんに告白されたって、小春さんもるるちゃんも驚いてたの。でもお兄ちゃん小和さんのこと知らないよね?だから変だなって」
どうやら冗談では無いらしい。
小春が双子?妹?聞いたことが無い、そんなこと……。
「……本当なのか?それ?」
「うん。小春さんが長女で、双子の妹の小和さん。その下に結衣さん。十名界神社の美人三姉妹って有名なの」
知らなかった。神社にはずっと近づかなかったから。
しかし、そうと知ったからにはここで泣いている暇はない。
確かに遅い時間だけど、このままにしておけない。すぐにでも神社に行って小和さんに謝罪しよう。そして、改めて小春に告白しよう。
「ごめん瑠環、神社まで行ってくるよ、教えてくれてありがとう」
まだ、希望があると分かり、視界が明るくなった気がした。
瑠環の目から涙がこぼれるのが見えたが、僕はソファーから立ち上がる。
「嫌っ!行っちゃ嫌!」
しかし、これまで聞いたこともない悲痛な声を上げて飛びついて来た瑠環に、再びソファーへと押し戻された。
「……瑠環」
瑠環はなりふり構わない様子で僕をソファーに組み伏せ、抑えつける。
「嫌!……お兄ちゃんずるいの、もう一回やり直しなんて、そんなのずるい……」
そのとき僕は、どうしていいのか、わからなくなった。
僕が好きなのは小春なのだ。だから瑠環の気持ちには答えられない。でも、瑠環が泣いているのも、見ていられないくらいに辛い。
今にも抱きしめてその想いを叶えてあげたくなるが、僕はまだ小春への未練を残している。
瑠環が小学生だってことを見ないことにするにしても、この先瑠環を恋人として見ることなんてとてもできなかった。
胸に顔をうずめてすすり泣く瑠環を振り払うこともできず、僕は迷っていた。
確かに、小春のところへ行くことは日を改めてもできるだろう。でも間違えてしまった小和さんに謝りに行くのは、なるべく早くしないと心証が悪くなる恐れがある。
瑠環から小和さんのことを聞かされた時点で、もう"知らなかった"は通用しないだろう。
瑠環を力尽くで振り払うことなど、とても出来ない。どうすればいい?どうしたら瑠環を納得させられる?
"かなり分は悪いけれど、もしかしたら……"
考えた末、この町の伝統に賭けることにした。
「瑠環、僕と勝負しよう。僕が勝ったら、このまま神社に行かせてもらう。瑠環が勝ったら、今日は諦めるよ」
「勝負?」
「うん。相撲しよう。諍いは相撲で決めるのが掟なんだろう?」
「……そうだけど、本気で言ってるの?お兄ちゃんあたしに勝てないと思うの」
「僕も最近だいぶ体力付いたからわからないよ?……でもそうだね。僕は初心者だし、この町の子はみんな強いから、一発勝負じゃなくてどっちかが降参するまででどうだ?」
「うん、やろうお兄ちゃん。でも、あたしが勝ったら……ううん、なんでもないの」
「……瑠環?いいんだな?」
「うん。いいの」
瑠環は何を言いかけたのだろう?この勝負は瑠環に有利だから、勝者の権利を吊り上げられると困るのは僕だ。
「後で泣いても知らないからな?」
「もう2人とも泣いてるの」
「それもそうだった」
アークス学園に入ってからそこそこ体力はついてきたとは思うが、相撲の経験は昔流々穂にちょこっとしごかれたくらいだ。
今の瑠環は当時の流々穂より強いだろうし、この町の子供はこの時期真面目に相撲の練習してる
から、実力差があって当然だ。
それに体格にしても、実はあまり差がない。
背丈は僕の方が高いけれど、たぶん体重はほとんど変わらない。
乙女の体重をなんで知っているかといえば、ごく最近、僕の体重を知った瑠環がやたらショックを受けていたからだ。
とても面白いことになっていた、そのときの瑠環の表情から察するに、僕とほとんど変わらないか、少し重いくらいだったのかもしれない。
一応瑠環の名誉のために言っておくが、瑠環は傍目に決して太ってはいない。ただ、もやしっ子で、普段から女子に間違えられたりするような僕よりは健康的な体付きをしているというだけだ。
雨はまだ降っていたが、勢いは弱まっている。
僕たちは素足で庭に出た。
うちの庭は2、3世帯が集まってバーベキューができるくらいの広さがある。建物の大きさは普通だが、この家を建てるとき海外生活の長い父親が、ご近所集めてパーティーができるくらいの広さに拘ったためだ。
築5年にして、家族すら全員集まったことが無い我が家だが、いずれはお世話になった人達と、家族全員が集まってパーティがしたいということを、父親が以前電話でぼやいていた。
そんな理由もあって、掃除や手入れはこまめにやっていたから小石やゴミを気にする心配はない。
瑠環と対峙して腰を落とす。蹲踞の姿勢は剣道でもやるけれど、袴を履いてないとどこか違和感が有った。
「さあ、おもいっきりやろう!手加減なんてしなくていいよ!」
地面にてを付く。
この町の神様。僕はこれから真剣にこの子と勝負します。だからどうか明るい結末を、僕たちにください!
八卦よい!
瞬間、瑠環の頭が激しく顎を打って、怯みそうになるが、必死に瑠環の身体に食らいつく。
こうして組み合って気が付くこともある。小さく見えていた少女は、思った以上に大きくて、そして強かった。
瑠環も僕の体をがっしりと捉えて、じっくりと押し上げるように力を加えてくる。僕もなんとか抗おうとするが、瑠環の体は動じない。体を安定させる姿勢、より強く力を加える方法、相手のバランスの崩し方という技術をしっかり習得しているのだ。
無理だ、勝てない。
10秒も経っていなかっただろう。瑠環の力に圧倒されて、気持ちが折れたのと同時に、僕は地面に倒されていた。
雨に濡れた地面は柔らかくて痛くはないが、とても気持ちが悪かった。
あまりに呆気ない敗北。
情けないとか、悔しいとか、そんな気持ちはわかなかった。
ただ、恥ずかしい。
実は僕は瑠環が手を抜いてくれると期待していた。僕の気持ちを優先してくれると、都合の良い展開を期待していた。
でも違った。瑠環は本気だった。力尽くで自分の意思を貫こうと、本気で挑んで来ている。
本気でぶつかってくる瑠環に、甘い考えを持って勝負に挑んだことが恥ずかしくて、思い知らされた気がした。
僕は、小春にも、瑠環にもふさわしくない……。
彼女たちに釣り合う強さが欲しい。
「まだやるの?」
「降参するまでだって言っただろう?」
意地でも追いついてやる!
僕は渾身の気力を振り絞って立ち上がった。
2回戦。
再び組み合う。
確かに瑠環は強いけど、身体は小さくて軽い。なりふり構わなければ、勝機はきっとある。
瑠環はTシャツにレギンスという動きやすい格好だが、こっちとしては掴むところが無いのが厳しい。それでも、瑠環の腹の下に腕を回して強引に持ち上げる。
「お、お兄ちゃんダメっ!危ないっ!」
瑠環が静止をかける。しかし僕は構うことなく僕は瑠環投げようとするが、投げきれずもつれ合うようにして倒れた。
瑠環は途中からわざと倒れたように思えた。僕が無理に力を使ったことで怪我をすることを心配したのだろう。
「ぐっ!」
腕がなんか嫌な音を立てて痛みが走ったけど、とにかく1勝取り返した。
「お兄ちゃん初心者なのに無茶しすぎ!下手すると大怪我しちゃうんだよ!」
確かに瑠環の言う通り、どうやら右腕を痛めたようだが、そんなの気にならないくらい気分がよかった。
勝てたことが純粋に嬉しかったのだ。
「フハハーン、負け惜しみかな?だったら僕の勝ちってことで、ちょっと小春のとこいってくる」
踵を返してリビングに戻ろうとすると、強い力で、後ろからぐいっとシャツを引っ張られた。
振り返って見た瑠環の満面の笑みは、さっきまで泣いていたのが嘘のように晴れやかなものだった。
「もっとやろうお兄ちゃん。立てなくなるまで可愛がってあげるの」
眩しい笑顔、それなのに僕は、ちょっとだけ背筋が寒くなった。
その後2回、3回、と瑠環は容赦なく僕を地面に投げ倒した。どうやら本気で立てなくなるまでやるつもりのようだ。
右腕の痛みも増す一方で、瑠環のスタミナが切れるのを待つことも難しいだろう。間違いなくこっちが先に潰れることになる。
しかたなく、こっちもとっておきを使うことにする。
視線は相手に向けたまま、こちらの狙いを悟らせないようにする駆け引きは剣道と変わらない。
正面から行くと見せかけて当たる瞬間にさっと躱す。
「ひゃうっ!」
勢い余ってうつ伏せに倒れる瑠環。……今の顔からいったな。なんか今日、似たようなのを見た気がする。
しかし、これで1本取り返した。
今度は、濡れた地面に足を取られて足首を捻ったようだったが、それも気にならなかった。
「お兄ちゃんずるい!」
「そうだよ、悪いか?」
ずるいもんか。頭を使って何が悪い。けれど理屈なんてどうでもいい。説明するのも面倒だった。
「ぐすん、お鼻打った……」
「大丈夫、怪我はしてないよ。……たぶん」
「お嫁に行けない顔になってたらどうしよう」
「その時は僕が……」
「本当!?」
……いい食いつきだな、しかし。
「……誰かいいやつ紹介してやるよ」
「ばかっ!!」
瑠環が飛びかかってくる。僕はそれを受け止めようとして、しかし足に力が入らずそのまま押し倒されてしまう。
……そのまま何秒かが経過した。
雨が冷たかった、濡れた地面が冷たかった、右腕と右足が痛かった。
でも瑠環の重みと体温が心地よかった。
「……だめだ。起き上がれん」
「エヘヘ、あたしの勝ちだね」
「ああ、瑠環は強いな」
頭を撫でてやろうと腕を上げようとしたが、そこに鋭い痛みが走る。
「痛っ……」
「大丈夫?お兄ちゃん?」
瑠環が飛び起きて、心配そうに僕の顔を覗き込む。とはいえ、瑠環も顔も泥だらけで服もずぶ濡れだ。痛々しい姿に、こっちの方が心配になってしまう。
こんな所で寝てたら風邪ひいて死んじゃうよ?早くお家に入ろう?」
「そうしたいんだけどな、さっきから手も足もめちゃくちゃ痛くって動かないんだ」
「わわっ!お兄いちゃん足が変な方向に曲がってるよ!?」
「なんだって!?」
さっき瑠環を避けた時か!?首だけ動かして足元を見ると、確かに右足首が本来あってはいけない方向に向いていた。
神様ごめんなさい。これはあなたに頼ろうとした報いなのでしょうか?
その後、瑠環のご両親が慌てて現れたが、命にかかわる程ではないにせよ下手に動かせそうにもないということで、結局僕は救急車で病院に運ばれることになった。
「お兄ちゃんごめんね。……ごめんなさい。……クスンクスン」
「お兄ちゃんは大丈夫だから。後は任せてね」
「ほら、瑠環。邪魔になるからこっちに来なさい」
救急隊員の人とお母さんに促されて瑠環はようやく僕の傍を離れる。
僕には瑠環のお父さんが付き添ってくれたが、救急車が見えなくなるまで瑠環はずっと泣きながら
それを見送っていたという。
その後、右足首の脱臼と右腕の骨にひびが入っていたことが判明し、家に看病してくれる家族もいないため、僕はしばらく入院することが決まった。
そして瑠環はといえば、相撲大会には参加しなかった。
瑠環もあれから体調を崩して熱を出して寝込んでしまったからだ。
僕が病院に運ばれた後、瑠環はご両親にこってり油を絞られたらしいのだが、その最中に目を回して倒れてしまったそうだ。
しかし僕の怪我の原因は、僕が無理な力の使い方をしたことにある。
その経緯は外科のお医者さんの診断とも一致していたから、これ以上瑠環が怒られることはないだろう。
そして一夜が明けて、2人の少女が僕の病室を訪れていた。
「あんた、小学生の女の子にやられて入院だって?プーッ、クスクス」
なぜか情報は筒抜けのようで、病室で僕を見るなり吹き出す小春。
「ベッドの上とか似合いすぎ、病床のご令嬢って感じで、なんか散ってく葉っぱとか数えてそう!」
病床の令嬢にギプスなんか似合わんだろ。
「冷やかしなら帰りやがれ!」
1人部屋で良かった。普通の病室だったら他の患者さんに大変迷惑をかけていたことだろう。
「お姉ちゃん、そんなこと言ったら悪いよ……」
そんな小春を嗜めている小春とよく似た女の子が、双子の妹の小和さんだ。
祭りの最中で忙しいはずなのに、まさか2人がこうして病院まで見舞いに来てくれるとは思わなかった。
憎まれ口を叩き合いながらも、来てくれただけで本当に嬉しい。
「えっと、小和さんですよね」
体が動かないので首だけ向ける。2人共私服姿で趣味も似ているようだが、こうして並んでいると確かによく似ているが、見分けが付かない程ではない。
あの時わからなかったのはきっと巫女服の魔力だろう。
「何言ってんの?小和は私よ?」
……隣で何やら小春がボケているが無視することにする。
「この間はその、……妹さんだと気がつかずに迷惑をかけるようなことを言ってしまって、すみませんでした」
小和さんは笑って許してくれた。
その横で小春は、見舞いのバナナを食べていた。
「実は私、あなたのことずっと女の子だと思っていたの。それなのに急にあんなこと言われたからびっくりしてしまって……。後でお姉ちゃんに男の子だって聞いてまたびっくりしちゃったよ」
小和さんは天鷲館学園ではなく、公立の中学校に通っているそうで、こっちは存在すら知らなかったのだが、小和さんの方は僕のことを知っていたらしい。
「そういえば、あんた達は小学校は一緒だったのよね」
「え?そうだったの小和さん?」
「う、うん。違うクラスだったけど、可愛い子が転校してきたって噂だったから、見に行ったことがあったんだ」
小春は隣町にある天鷲館学園系列の小学校に通っていたらしいが、小春に比べて控えめで、気立てがよくて、そして少し体が弱かった小和さんは、実家から近い公立の小学校に通っていたのだという。
なるほど、小学生の頃に見かけていたのは小和さんだったのか。
しかも神社の前で話をしていたときまで僕を女子と思っていたとは、同性に告白されたらそれは確かに"困ります" だろう。
「だって水宮君、確か5年生のときの相撲大会で女子のところにいたでしょう?覚えてないかもだけど、そのときの相手、私だったの」
「あはは……。そ、そうだったんだ」
それは全く気が付いていなかった。その後があまりに衝撃的すぎて、そのとき対戦した相手のことはすっかり忘れてしまっていたのだ。
「小和、その話詳しく」
バナナを2本平らげた小春が、目を光らせて食いついた。これは当分冷やかされそうだ。
「……頼むから黙っていてくれ小春。それは全部流々穂の仕業で、僕も試合の後に気がついて……恥ずかしくてそれ以来、神社も祭りも行けなくなったくらいなんだ」
「わかってるわよ。周りでおかしなことがあったら大体あの子のせいだから。気にしちゃダメよ彩乃ちゃん」
こいつ実は知ってたんじゃないか!覚えてろよ!
冷やかされたことに気づき、僕は心の中で小春と流々穂にいずれ復讐すると誓った。
その後、小和さんは花摘みに行くかのようにさりげなく席を外した。気を使ってくれたのかもしれない。
「その足、いつ頃治るの?」
病室で小春と二人きりになって、最初に言葉を切り出したのは小春だった。
「うーん。わかんないけれど、ちょっと時間はかかるみたいだね」
骨が外れた時に腱も傷つけてしまったそうだ。だからギプスが取れても、しばらく激しい運動は控えるようにと言われていた。
当然だが、その間は剣道もできない。
小春はその間も腕を上げていくだろうし、置いていかれることになるだろう。
そうなったら今までのように頻繁に試合もできないかもしれない。
それでも友人ではいてくれるだろうか?
いや、前に進みたい。
「小春……、君のことが好きです」
こんどこそ……。願いを込めて告白をした。
それを聞いた小春の顔は、とても優しかった。
「もっと男を磨いてから出直してきな」
でもその返事は、望んだものではなかった。
届かなかった。でも拒絶ではないその言葉を、自然と心はそれを受け入れた。
「わかった、もっと良い男になってまた出直すよ」
まっすぐにぶつかってくる小春を、今はまだ受け止めることはできないから、僕はもっと強くなろう。
「いつまでも待てないわよ。そうね、私に本数で上回ったらちょっと考えてあげてもいいかな?」
「……あとたったの2本じゃないか」
今のところ僕が15本、小春が16本だから、ストレートに2本勝ちすれば達成できてしまう。
「どうかしらね?その足が治る頃には、もうあんたに負けないくらい腕の差がひらいてるわよ?」
それもそうだ。次に試合をするのが何時になるのかはわからないが、そのとき2本の差は更に広がっていくに違いない。
「大丈夫。ちゃんと追いつくから。そのときは容赦なく揉んで欲しい」
「よしっ!」
小春は満面の笑みを浮かべて頷く。
「そのときは相手してあげるよ。何度だってかかってきな」
その言葉に胸が熱くなった。すごく嬉しい。
「ま、今はさっさと治しなね」
しばらく世間話をして、やがて小春が病室を後にしたとき、不思議と名残惜しいと思わなかった。
告白はうまくいかなかったけれど、僕の心はふわふわと飛んで行きそうなくらい幸せな気持ちだった。
先を進む彼女に追いつくためにも、少しでも早く怪我を治そう。僕は小春との会話の余韻を愉しむように目を閉じた。
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